2008年の政治・経済に関する思索/批評のページ


 2008年の政治・経済に関連する記事を掲載しています。

天皇誕生日にあたり
【政治】
 今日は天皇誕生日です。今日の東京の天気は晴れですけれど、ご自身の健康問題や後継者問題もあり、天皇陛下の心の内は晴れ模様とはいえないことでしょう。病身で職務に邁進されてきたのに、哀れなことです。

 ところで、天皇になれるのならばなりたいものでしょうか。ボクは絶対になりたくありません。どう考えても自由に行動することは難しいし、色々と自分を抑えなくてはいけない事もあるでしょうから、どんなにお手元金があるとしてもご遠慮申し上げたい。
 皇族に生まれついても、天皇になるのを回避する方法はあります。それが皇籍離脱です。これは、皇室典範の定めによります。

皇室典範
(昭和二十二年一月十六日法律第三号)
最終改正:昭和二四年五月三一日法律第一三四号

第十一条  年齢十五年以上の内親王、王及び女王は、その意思に基き、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。
○2  親王(皇太子及び皇太孫を除く。)、内親王、王及び女王は、前項の場合の外、やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる。

 でもこれを読む限り、皇太子は皇籍離脱できないし、親王はよっぽどやらかさないと皇籍離脱できないようですね。
何に借金を使うのかはよくよく考えよう
【経済】
 現在、暇つぶしにマクロ経済学の教科書を読んでいるということを書いたが、そもそもマクロ経済学とは1929年からの世界恐慌を説明するために興ったということをご存知だろうか。これには、世界恐慌が起きることを許してしまった経済学者の反省がこめられているように思う。
 ボクの読んでいる本を信じる限りにおいては、どうやら現在においても、なぜ世界恐慌が起こったのかということについては、確定的な見解がないらしい。(これは、マクロ経済学におけるモデルのパラメータが従属変数であることに起因していると思う。つまり、どのパラメータが経済に影響を与えたのか、厳密に識別できないのだ。)それでも有力な見解を集めてみると、失敗に失敗を重ねてしまったことが問題ではあったようだ。

 世界恐慌は、1929年10月24日10時25分、GMの株価が80セント下落したことに始まる。これを受けて、株式市場は全面安となり、わずか1週間で300億ドルもの富が失われる結果となった。第一次世界大戦におけるアメリカの戦費(約3年分)が332億ドルと言われているので、それに匹敵する額をわずか1週間で失ったのである。
 この株式市場の暴落が引き金となり、消費・投資の冷え込み、利子率低下・所得の減少を招いた。また、銀行の連鎖倒産も発生し、資金の流動性も低下、需要とマネーサプライの低下が相まって物価下落をもたらし、更なる投資の減少を招くこととなった。
 当初は単なる不況であった経済が、世界恐慌と呼ばれるまでに拡大したのには、財政政策と金融政策の失敗に原因の一端が求められると言われている。一つは、政策立案者がプライマリーバランス維持のために増税と歳出削減に固執したこと。もう一つは、マネーサプライの減少を放置してしまったことである。

 こうやって書いてくると、現在の状況は世界恐慌時と似通っているところがかなりあるように思われる。しかし、先の教訓に従い、中央銀行はマネーサプライを注視するだろうし、政府は総需要を維持するためにあらゆる拡大策を取るだろう。
 だが、この財政拡大策に旧来型の道路工事の増大やダムの開発しかできないのならば何の意味もない。どうせ借金を増やして未来に債務を移転するのならば、未来に役立つことをして雇用創出をしたいものだ。最近のトレンドに従うならば、やはり環境関連の投資なんだろうな。

 でも、こうやって不況が来るたびに負債を未来に先送りすることしかできないのだとしたら、資本主義社会というのは、もしかするとシステム的に破綻しているのかもしれない。最終的にはダメな部分を政府に押し付けて処理することで生き延びようとするのだから。
良法か悪法か
【政治】
 2008年12月5日に成立した国籍法改正案については様々な意見があるようです。問題となっているのは国籍法の以下の条文。

(出生による国籍の取得)
  第二条 子は、次の場合には、日本国民とする。
   一 出生の時に父又は母が日本国民であるとき。
   二 出生前に死亡した父が死亡の時に日本国民であつたとき。
   三 日本で生まれた場合において、父母がともに知れないとき、又は国籍を有しないとき。
(準正による国籍の取得)
  第三条 父母の婚姻及びその認知により嫡出子たる身分を取得した子で二十歳未満のもの(日本国民であつた者を除く。)は、認知をした父又は母が子の出生の時に日本国民であつた場合において、その父又は母が現に日本国民であるとき、又はその死亡の時に日本国民であつたときは、法務大臣に届け出ることによつて、日本の国籍を取得することができる。
 2 前項の規定による届出をした者は、その届出の時に日本の国籍を取得する。


 つまり、出生後に国籍を取得するためには、
@ 二十歳未満であること
A 出生時および現在(死亡時を含む)に、父または母が日本国民であること
B 認知がされていること
C 父母が婚姻状態にあること
を満たす必要があります。
 母親が日本人である場合は、第二条一項において日本国籍を取得可能なため、問題は、父親が日本人、母親が外国人であり、認知もされていなければ婚姻状態にもない子のケースです。彼らはこれまでは日本国籍を取得することができませんでした。
 この問題に転機が訪れたのは、2008年6月4日。最高裁大法廷は、Cの条件が法の下の平等に反するとして、憲法違反の判決を下しました。この判決を受け、政府は国籍法の改正案を国会に提出したわけです。

 結婚している日本人男性が海外赴任なんかでやりたい放題やった結果として産まれた子供が日本国籍を取得できないなんてひどすぎる!という視点に立てば、今回の法改正は大変に結構ということで何も問題にはならなかったでしょう。しかし、これを悪用した場合にどうなるでしょう。

 外国籍の女性Aさんは、自分の国では幼子を一人で育てるのが難しく、割の良い職探しのため来日しました。しかし、就労ビザを取得することはできず、観光ビザで働いています。いわゆる不法就労者です。そんなある日、彼女に職を世話してくれた日本人ブローカーBさんが、子供に日本国籍を取得させてはどうかと提案してきました。子供は自国の男性との間に生まれた子であり、本来なら日本国籍を取得することはできません。しかし、Bさんは、百万円あれば父親役の日本人を手配できるので、必ず日本国籍を取得できるといいます。確かに、子供が日本国籍を取得できれば、自分にも長期滞在許可が下りるはずです。そうすればもっと良い仕事も探せるかもしれません。Aさんは、こつこつ働いてためてきた百万円を彼に支払うことにしました…

 以上のようなケースはいかがでしょう。認知手続は父親の住民登録がされている役所に書類を提出すれば良いだけですし、準正手続は法務省に書類を提出すれば良いだけです。ある程度の謝礼で父親役を引き受ける人がいれば、全くありえない話ではありません。また、虚偽申請をした際の罰則も今回追加されましたが、非常に軽く、1年以下の懲役か20万円以下の罰金となっています。ですから、ローリスクハイリターンのビジネスとみなされるかもしれません。
 実際にドイツでは、似たような法案が成立した結果、ホームレスを父親に仕立てて国籍を取得するケースが見られたそうです。ただ、ドイツでは知りませんが、日本においては認知をするということは、お互いに扶養の義務と相続の権利が発生します。そして、いったん認知したらそれを取り消すことはできません。このため、本当に偽父親が発生するか分かりませんし、もしかしたら、逆に子に扶養してもらおうとしてトラブルになるケースもあるかもしれません。

 ここで問題は、悪用の危険があるからといって、現に不利益をこうむっている人を放置するのかどうかということです。このため、準正認知時にDNA鑑定を義務化するなどの案も出ているようですが、十万円程度の費用がかかるとのことで、法務省は二の足を踏んでいるようです。
 まあ、審査を厳しくして水際で虚偽申請を防げば良いのでしょうが、昨今明らかになってきている事例を鑑みるに、そのような期待を役所に抱くのは酷と言うものでしょうね。さてさて、成立によってどのような社会になるのでしょう。
素人の視点はどこまで許されるか (4) 裁判員制度の功罪(了)
【政治】
 前回までは政治における素人の視点について書いたように思う。ずいぶん間が空いてしまったのでボクも良く覚えてはいないが、判断する上での情報を十分に持っているかが鍵になるという様な論旨だった。今度は、来年度から始まる裁判員制度について少し思うところを書いてみたい。
 既に、裁判員候補者の名簿作成が始まっており、最高裁長官も裁判員制度に詳しい人を据えたりして、待ったなしの状況になっている。裁判員制度の詳しい仕組みについては、こちらを参照いただくとして、簡単に言うと、裁判員6名と裁判官3名の合議により判決と量刑を定める制度ということができるだろう。この対象となる事件は、主に刑事事件の重犯罪のようだ。そして、欧米の裁判員制度との違いの大きなものとして、量刑までを裁判員たちが決定するということが挙げられる。
 通常、裁判官になるためには、司法試験を通り、司法修習を終え、裁判官補を経てから裁判官になるはず。つまり、一人前の裁判官になるまでは、OJTという感じで裁判官補をやりながら経験を積んでいくのだろう。その上で行えるようになる業務と同じことを一般人にやれというわけである。
 確かに、有罪無罪を裁判員が決めるというのは良い。なぜなら、現代社会における裁判とは、犯罪者かどうかを決めるのと同時に、一度犯罪者となったものを再び社会に受け入れて良いかを判断するものだと思うからである。これならば、社会の構成員の代表たる裁判員が決めるのに何の問題があろうか。問題は、量刑まで定めるということである。
 犯罪事実を理解し客観的に判断するためには、証拠から情報を読み取るための能力が必要で、それには様々な知識や経験が要求される。しかし、普通の人はそんな経験を積む機会はないし、客観的判断材料が乏しければ情などの主観的な判断材料に影響を受けやすくなるだろう。だからボクは、量刑まで裁判員に決めさせるのはやりすぎだと思う。司法の丸投げといっても良いくらいだ。

 また、なぜ行政訴訟が裁判員制度の対象となっていないのかが大きな疑問である。一般的に、行政訴訟は上級審になるほど行政側勝訴の確率が高まっていく。これは、三権分立といいつつも、司法のトップの任命権が行政にあり、人事権を通じて司法が行政の影響を受けざるを得ないということとも無関係ではないと思う。だからこそ、ここに裁判員制度を導入する方が、客観的な裁判を行うことになり良いと思うのだが…そうはなっていないのが現実である。
お上のお慈悲ぞ
【政治】
 最近は以前ほど定額給付金の話題が騒がれなくなったように思う。このまま立ち消えになってしまえば良いのに。今回の件について、60%以上の国民が無意味だという賢明さには少し安心した。
 なぜなら、そもそも給付されるお金は国民から徴収された税である。一度取り立てたものを、お上のお慈悲で返すぞ、といっているわけである。PASMOの不備で運賃を取りすぎたバス会社などが平身低頭して返金しているのに比べ、お前は何様だという感じである。不要ならば徴税しなければ良いのだし、必要なのに借金を増やしてまでばら撒くなら、無駄である。ばら撒くために使われる税金を思うと泣けてくる。
 結局、為政者というものは税金を自分の金だと思っていることが今回の件で明らかになった。古代ローマの皇帝ですら、就任の際に祝い金として市民に配布したのは、私財である。2,000年以上前の為政者が持っていた心構えすらないとは悲しい限りだ。
一言物申す
【社会】
 旧厚生省の次官経験者の関係者が襲われた事件の容疑者が自首した。それ自体は別に良いのだが、この事件にあたり、厚生族のやつらが調子に乗った発言をしていたのが気になる。
 確かに、暴力によって言論を封殺するのは、これまでの歴史でもよくあった事ではあるが、民主主義の原則に反する。しかし、犯人が正しくないからといって、襲われた側が正しいと証明されたわけではない。正しいか正しくないかの議論とは全く別のところで起きたのが今回の事件であるということは、常に肝に銘じておくべきことである。

 そもそも、出生率の低下などにより将来的に超高齢化社会になることは、ボクが幼少のころから言われていたことであった。畢竟、年金制度も窮地に陥ることは自明であった。少なくとも、「選ばれたエリート」を自称するキャリアの皆様にとっては、考えるまでもなく分かることであったろう。それにもかかわらず制度設計を誤り、それどことか運用をなおざりにし、現在の混乱を招いた責任は、社会保険庁と所管する旧厚生省、そして厚生族議員にもあることは明らかだ。

 しかし、今回の事件が起きたとたんの旧厚生省関係者の発言は聞くに堪えないものがある。「一生懸命やっている官僚をいじめる野党やマスコミは異常だ」という趣旨の発言をした津島議員。あなたに問いたい。一生懸命やっていればそれで良いのですか。その結果、国が誤った方向に進んだとしても、一生懸命やったのであれば許されるのですか。「選ばれたエリート」ならば、結果も出してこそでしょう。あなたにプライドはないのですか。
 「今回の事件は民主主義に対する挑戦だ」という趣旨の発言をした元次官がいる。それは確かにそうかもしれない。しかし、あなた方は都合の良い時は民主主義を無視して自分たちで勝手に政策を決める。まさに民主主義により選ばれた国務大臣も無視する。そんな人たちに、民主主義の加護を求める資格があるのですか。そんなことでは、都合の良い時だけ子供という立場を使い分ける小生意気なガキと一緒ですよ。本当に「選ばれたエリート」なんですか。

 今回、容疑者が自首したことにより、関係者は一様にほっとしていることだろう。しかし、本来の問題が何も解決していないことだけは自覚してもらいたい。特に、すでに定年退官して悠々自適に暮らしている元官僚のあなた、あなたに言っている。
田母神問題にあたって考えること(下)
【歴史】
 前述の二つの罪で裁かれた国がもう一つある。ナチスドイツである。ところがどっこい、今でもドイツが他国から過去の反省を求め謝罪を要求されているなどという話は聞かない。そして、ドイツ国民が他国に対して引け目を感じて生きているなどという話も聞かない。
 この理由の一つとして、ドイツではナチスの悪行を子供たちに隠すことなく教えていることが挙げられる。一方で日本はどうだろうか。小中学校を出た人なら分かると思うが、歴史の授業において先の戦争が取り上げられることはほとんどない。なぜなら、石器時代から始まって時代を進めて来ると、大抵、江戸時代くらいで時間切れになってしまうからである。こんなことでは、先の大戦において、日本が何をして何をしなかったのか、などを考察できる国民が育つわけも無い。
 本当に日本を憂えるならば、田母神氏は、このような問題を考察すべきであったと思う。いまになって、日本は悪くなかった、などと言い出すのは、けんかに負けたガキ大将が安全なところに来て負け惜しみを言っているようでみっともない。物事の良いところだけを見て、日本はすばらしい国だ、などといったところで、誰に対して説得力があるだろうか。

 また、田母神氏は、当時の軍部指導者(=政治指導者)も擁護しているようだ。しかし、戦争とは外交的敗北の結果であるという事実を思い出せば、このような見解は一笑に付されるだろう。要は、当時の政治指導者が外交的失敗を積み重ねてきた結果、戦争をせざるを得ない状態に追い込まれてしまったのであり、比較論的に言って他国に劣っていたと考えて差し支えないと思う。
 孫子、火攻篇に曰く、「(前略)…利に非らざれば動かず、得るに非ざれば用いず、危うきに非ざれば戦わず。主は怒りをもって師を興すべからず。将は憤りを以って戦いを致すべからず。利に合えば而ち動き、利に合わざれば而ち止まる。…(後略)」どこまで儲けたらやめにするかも考えず、ただ戦い続けるのは愚か者のすることである。二千五百年も昔に悟っていたことを実行できない者を、賢者と呼ぶことが出来るだろうか。


(※)ボクは専門家ではないので、記述の信憑性は自分で追確認してください
田母神問題にあたって考えること(上)
【歴史】
 田母神前航空自衛隊幕僚長の公募論文の是非が問題になっている。70年近く前のことが未だ問題になるということは、日本にとって、あの戦争は過去の事ではないのだろう。
 この論文だが、タイトルが「日本は侵略国家であったのか」とある通り、簡単に言ってしまえば、先の戦争における日本の行動を正当化する内容である。初見、論文とは名ばかりの稚拙な文章である。彼が空幕長という要職についていなければ、なぜこれが公募論文の最優秀に選ばれたのか首を傾げてしまう。しかし、彼は航空自衛隊のトップであり、稚拙といって流せない部分も多い。そこで、自分の意見を少しまとめておきたい。
 問題の論文は、A4で9ページ程度の短いものである。興味があれば、ご一読いただいても良いと思う。<リンク>

 この問題を考えるにあたっては、「侵略」とは何かということを明確に定義しておかなければならない。田母神氏は「条約等に依らず他国に軍を駐留させること」と定義されているようだが、これだけでは、先の大戦における日本に対する扱いを理解することは出来ない。なぜなら、田母神氏の定義に従えば、侵略国家でない国家など存在しないことになるからだ。
 使い古された表現になるが、人類の歴史は戦争の歴史といってよい。有史以来だけでも数え切れないほどの戦争を行い、領土を拡大し、食糧生産を増やすことによって人口を増大させてきた。アメリカも原住民からアメリカ大陸を奪いながら西部に拡大して行ったのだし、中国も古くはウラル山地を越えて勢力を拡大した。前述の定義に依るならば、これを侵略戦争でないとは言わせない。

 このように考えると、単なる武力侵攻が「侵略」であるという単純なことはいえないことが分かる。何せ、戦後70年近くたったいまでも、侵略戦争について謝罪しろといわれる国は日本くらいなのだ。ゆえに、先の大戦までは存在せず、先の大戦後に作られた何かにより規定されるものが「侵略」であると考えるのが妥当だろう。
 まずはじめに考えつくのが、極東軍事裁判の罪状だろう。この裁判では、日本は二つの罪に問われた。一つは「平和に対する罪」であり、一つは「人道に対する罪」である。
 この二つの罪のうち、「人道に対する罪」は非常に分かりやすい。すなわち、「国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、追放その他の非人道的行為」を指す。この罪の立証は、比較適しやすいと思う。
 しかし、一方の「平和に対する罪」は、「侵略戦争または国際条約・協定・保障に違反する戦争の計画・準備・開始および遂行、もしくはこれらの行為を達成するための共同の計画や謀議に参画した行為」とあり、侵略戦争の定義も明らかではないために、恣意的な判断を加えやすい。この判断は、極東軍事裁判では戦勝国によりなされたし、現在では国連の安全保障理事会で下される。
 このように考えると、日本が侵略国家であったかどうかなど、実はどうでも良いことだと分かるだろう。なぜなら、侵略国家であるかどうかは、戦争に勝った側が判断する事項であるのだから。問題はそんなところにはない。
失ったものを取り戻せるか
【経済】
 お金というツールはとても便利なものだ。特に、価値が異なるモノを交換する必要がある場合には欠かせない。ドルをユーロに両替することもできるし、肉を野菜に換えることもできる。ロンドンでパソコンを渡して、リオデジャネイロでコーヒーを貰うこともできる。金融機関を媒介させることによって、実量以上の取引を行うことだってできてしまう。
 一方で、この利便性は弊害も生む。本来は価値が異なるものの媒介に過ぎなかったはずのお金が、全てのものを評価するツールへと変貌してきた。この弊害は様々あると思うが、特に問題なのは、労働の貴賎を給料の高低でとらえるというような風潮だろう。
 例えば、給料がべらぼうに高いインベストメントバンカーはエリートで、冷凍倉庫で労働するようなフリーターは人生の敗者だというような考え方だ。しかし、よくよく考えてみれば、どちらがいなくとも、現代経済は動脈硬化を起こしてしまうのだから、そこに貴賎はないはずだ。だが、実際には給料が高いホワイトカラーがありがたがられる結果、社会基盤を支える技術者や医療関係者(医者を除く)などの優秀な成り手が減少するという結果をもたらしている。
 これに対する政府の政策は、よく調べてはいないけれど、補助金を出すなどして給料の底上げをするというような、金銭的対応でしかないと思う。でもよく考えてほしい。優秀な人は、苦労しなくても儲けられる職業があれば、そっちに行くんじゃないのか?だから、問題の解決にはお金以外の価値に重要性を見出す社会にしなければいけないと思う。
 社会に貢献するということが価値あるものとされた時代には、自らの財を使ってでも人助けをするという人たちがいた。それが彼らの誇りとされた。しかし、今は如何に儲けるかが価値判断の基準だ。いくら昔を懐かしんでも、嘆いても、それは年寄りの繰言に過ぎない。社会基盤を崩壊させないためにはどうすればよいのかを真剣に考え始める時が来ていると思う。
素人の視点はどこまで許されるか (3) 何に基づいて判断を下すのか
【政治】
 何を目指して政治を行うべきかについては諸説あるかもしれないが、おそらく現存する国のほとんどは、国益を最大化することに重心を置いていると思われる。国益の最大化とは国全体の利益を最大化することであり、国を構成する個々の利益を最大化することではないことに注意する必要がある。安い食品を輸入することによって輸入業者・消費者の利益を求めれば、価格競争により国内の生産者に打撃を与える結果になるかもしれない。現在の国民に国債負担を強いれば不満が出るかもしれないが、そのお金で教育を施し優秀な人材を育成できれば将来の繁栄を享受することができるかもしれない。それぞれ相容れない状況に対して、様々な側面から分析を行い総合的に判断し、両者のバランスが取れる点を見つけるのが政治の役割だろう。
 このような最適判断を行うことができるのは、判断をするに足る情報(=完全情報)を持っていることが前提となる。不完全情報しか持たない存在による政治の一方的な評価は、知らず知らずのうちに目に見えない危険を呼び込む結果となりかねない。なぜなら、扉の先に虎口があるのも知らずに、勢いに任せて飛び出すようなものだからだ。政治評価における完全情報の重要性は、米国の国立公文書記録管理局のような存在を考えても明らかである。
(上記の政府機関は、全ての公文書を保管し、機密レベルにより機密解除年限を設定しているところ。だから、昔の機密文書が現代になって公開されたりする。)

 ここで、一般人のほとんど唯一の情報源と言って良い、マスコミの情報収集能力を考えてみよう。マスコミという存在が国家に内包される以上、マスコミの情報収集能力は政治のそれを上回ることはないはずである。不完全情報しか持てない一方で、国民に対するアクセスの良さはマスコミが遥かに上回る。この際、【マスコミから得る情報】=【己の知る全情報】である人々は、他者との比較ができないために、それを”完全情報”であると誤認してしまいやすく、また、この”完全情報”に基づいて、政治の評価を行わざるを得ない。この結果として、例え正しい政治であったとしても、人々に対して開示されるべきではない情報に基づいて行われた政治である場合、不当な評価を与えられることになる。
 このように考えると、マスコミが政治に対するアクセルとして機能することは、危険な一面も孕んでいることが分かる。なぜならマスコミは、独断に基づいて自らの見解を正しいものとして人々に伝え、扇動することも容易に可能だからである。ゆえに、マスコミは、政治に対するブレーキとしての役割を超えるべきではないと私は考える。

 以上の見解は、マスコミの存在を否定するものではないし、素人の視点から政治を評価することを否定するものでもない。むしろ、政治の暴走を防ぐためのブレーキとしてのマスコミは非常に大事な存在であると思うし、国益と個人の利益をできる限り接近させるためには素人の視点から政治を評価することは大切なことだと思う。ただ、暴走する政治に代わって、暴走するマスコミが登場したとき、いったい誰がそれを止めるのかという問題を突きつけられた際に答えに窮するというだけに過ぎない。
 このように考えると、フジテレビ系「CHANGE」で描かれているように、政治的に素人の人間がトップに立ってリーダーシップを発揮することは、実務に長けた人材がいるという前提の下で、必ずしも悪い考えではないと思う。なぜなら、政治の中枢に立てば、判断必要な情報には事欠かないし、なおかつ、素人の視点で物事を判断し、実現していくことができるからである。
素人の視点はどこまで許されるか (2) ブレーキとアクセル
【政治】
 普通選挙制度は、有権者に対して平等に投票権を与える制度である。これは、例え総理大臣経験者だろうが/フリーターだろうが、政治のプロだろうが/素人だろうが、同じ一票を行使できることを意味している。このため、多数票を獲得するためには、政治に興味を持っている人間(=少数派)に訴えかけるよりも、政治に興味を持っていない人間(=多数派)に訴えかける政策を掲げた方が効率が良いという考え方が成立する。
 この多数派を味方につける方法はいくつか考えられる。一昔前に主流だったのは、利権団体を活用した集票システムである。これは、企業連合や組合のような組織に利権を提示し、その構成員の票を確保するシステムである。所属団体と構成員の間には雇用関係などが存在するため、雇用関係の維持という目的で構成員が均質化されているのが特徴である。
 近年になって主流になっているのが、無党派層と呼ばれる集団を味方につける方法である。無党派層は一見すると様々な社会的背景を持つ集団であり、特定の方向性を持っていないように思われる。しかし、これまでの選挙の結果から推定するところ、マスコミの強い影響下にあるという意味で均質化された集団であると考えられる。
 この両者のシステムを比較すると、前者のシステムには所属団体の指導者層という統一された意思決定者が存在するのに比べ、後者のシステムには、強いて言えばマスコミがそれに該当するが、統一された意思決定者が存在しない。この結果として、マスコミが誘導する方向に世論が動き、政治が追認するという流れが生じることとなった。つまり、社会的背景の変化(地域社会の形骸化、個の台頭など)に伴い過去の集票システムが崩壊したことにより、かつてはブレーキとして機能していたはずの世論(=マスコミ)が、アクセルとしての役割を果たすようになってきたと言える。
素人の視点はどこまで許されるか (1) あいまいな評価システム
【政治】
 素人の(庶民の)視点で考える。各所で耳にするフレーズであり、特に政治の世界に対してはコンセンサスが取れている概念らしい。実際、フジテレビ系ドラマ「CHANGE」でも、素人が総理大臣になったら、と言うテーマに取り組んでいることからも、これは見て取れる。
 こういったテーマが扱われる背景として、政治は素人でもできる、というイメージを抱いている人が多いことが挙げられる。これは何故だろうか。

 ビジネスや学問の世界では、自分の実績値を客観的に評価するプロセスが存在する。ビジネスの場合、利益を上げることが世間に対する会社の評価を決めるし、人事評価が下位者における個人の評価を決定する。学問の世界には明確な評価はないと思うかもしれないが、論文数や論文が参照された数によって、ポストが得られたり補助金が得られたりするので、やはり客観的な評価プロセスは存在している。
 ところが、政治の世界の場合、選挙という評価プロセスは存在しているのだが、必ずしも客観的とは言えない。実際、選挙の際に政治家の実績を見直して、候補者を比較検討したことがある有権者はほとんどいないだろう。そして、誰に投票するかの決め手が、マスコミの意見だったり、ポスターの出来だったり、その日の気分に左右されていないと言い切れる有権者も少ないことと思う。この主観に左右されやすい評価制度が、政治は素人でもできる、と思わせている一つの要因なのではないかと思う。
何を考えているのか
【政治】
 日銀人事案を考えている人は、どんなに腹黒い人なのだろう?新人事案として、国際協力銀行の総裁を日銀にと考えるなんて。
 大蔵省から二度天下ることになる人なんて、明らかに武藤氏よりもひどくなっているよね。民主党が不同意にせざるを得ない状況を再現して、民意の批判を集めようという策略にしか見えない。こんなことなら、武藤氏に同意して置けば良かったと思っているんじゃないですかね、民主党は。
すり替え
【政治】
 最近、揮発油税等の暫定税率の延長をするか否かが話題になっているようです。色々事情があり、政府はこれを延長したいらしい。この延長の正当性の根拠として、環境対策が挙げられているようです。曰く、ガソリンを安くするといっぱい車に乗るようになる、結果、二酸化炭素排出量が増え、環境が悪化する。
 要は、揮発油税等の延長に反対するものは、環境の敵だ、という図式を作りたいようですね。ガソリンが安くなれば使用量が増える。確かにこれは一面の真実かもしれません。しかし、揮発油税は道路特定財源ですよね。つまり、これを徴収することは道路を増やすことにつながるわけです。これって、たくさん車を走らせるねっ、ということではないのでしょうか。
 確かに、地方の一部では、大きな道路がなくて困っているところもあるかもしれません。でも、こんな大きな道路はいらないのに山を削ってまで作りやがって、と思っている地方もあるはずです。どの道路が本当に必要なのか、あとどれだけ作れば満たされるのか、不要なものはないか。その検証過程が全く分かりません。救急搬送に必要だという意見もあるかもしれませんが、このためだけに対して使われない道路をつくるくらいなら、大きな病院までヘリで搬送する、という方式も検討の価値があると思います。もしかしたら、こちらの方がコストパフォーマンスが良いかもしれない。
 環境の敵、という議論にはこういいたい。それなら環境税を作れ、と。環境保護のために税率を上げるという論理ならば、その税金は環境特定財源とすべきです。決して、道路特定財源ではない。つまらない論理のすり替えはやめて欲しいものです。国民をバカにしているとしか思えません。

 だいたい、何で”暫定”税率なのですか。暫定、というのはしばらく、という意味ですよね。国にとってのしばらくとは、一体何年のことなのでしょうか…
必要があるのか
【政治】
 あまり詳しくはしらないが、民主党が高校の無料化法案を提出予定らしい。果たしてこれは必要なことなのか?
 もし高校で学ぶべき内容が社会で必須であるから、という理由で無料にしようとしているならば、授業時間を延長するなり、修業年限を延ばすなりして義務教育の範囲に含めるべきだろう。自由選択である高校の教育を無料化することは、種々の事情により高校に通うことのできない人々との間に格差を生むことになる。
 将来の人材育成のために、教育に力を注ごうという方針は分からなくもない。しかし、そもそも、高校以前に、中学までの教育が定着しているかが疑問だ。高校を無料化する金があるならば、中学までの教育の質を高めるために金を使ったほうが、効果があるように思う。

 平等主義者からは叩かれるかもしれないが、どうせ不平等な制度をつくるならば、能力の違いによる不平等を徹底させた方が、国力の増強には良い。子供が興味を持つ分野を伸ばすために、能力の違いによって教育の機会に濃淡をつけ、伸びる子供の成長を抑制しないことが重要だろう。
 悪しき平等主義は、結局、誰のためにもならない。人は生まれながらに不平等な存在なのだから。
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