2006年の科学に関する思索/批評のページ


 2006年の科学に関連する記事を掲載しています。

医師の一分
【医学】
 先週のテレビ朝日系「サンデープロジェクト」に根津マタニティクリニックの根津院長が出演していた。代理出産を実施していることで有名な。

 彼の主張を聞いていると、医師として首尾一貫した考えを持っていることが理解できた。子宮ガンの患者には子宮の切除という治療法を実施しなければいけないのが産婦人科医の立場。自分の命を天秤にかけて出産を選ぼうとする女性にとって、それは絶望の宣告である。子宮を取ることによって子供が産めなくなるというのならば、子供を産むほかの方法を提供することができれば子宮の切除にも躊躇がなくなる。だから代理出産の方法を提供する。
 代理出産は神の領域に踏み込む、などとの給う専門家がいる。しかし、そんなことを言えば全ての医療行為は神の領域ではないか。本来あるべき姿に手を加えるのだから。それでは輸血も拒否するような某宗教の論理に陥ってしまう。だから、この問題に倫理を持ち出してきてはいけないのだ。議論が発散してしまう。

 今後、医療技術が進歩し続ければ、今の倫理観では許されないような方法による治療も可能になってくるだろう。できるけれどやらない。そういう状況を作るには、法による規制をしくしかない。
 殺人はいけない。これは多くの人間の共通認識だろうが、なぜいけないのかと人に問えば、その答えは無数にあることと思う。ただ、社会的にそれを禁じているのは法である。代理出産の問題も同様に処理せざるを得ないだろう。

 おそらく、代理出産を完全に禁じるというのは現実的な対応ではない。他人の命を危険にさらすというのならば、生体移植なども同様ではないか。できることは、それが商売にならないよう条件を設定し、本当に必要な人にのみ提供されるような環境を整備することが求められると思う。
どのくらい使えるのか?
【情報】
 ネットでニュースを見ていたら、文部科学省が「デートで使える科学ネタ」とかいう小冊子を作ったという話が出ていた。ホンマかいな。
 それを最も使っている人が文部官僚とかだったら笑えると思う。
社会におけるアポトーシス
【生物】
 今回の題材は非常に差別的な発言を含んでいるので、そのつもりで。

 21世紀に入って6年目。あなたが子供の頃に思い描いていた21世紀の世界と現実の世界に乖離はないだろうか。新世紀というやつに過剰なイメージを抱きすぎていた感は否めないが、ボクの思い描く21世紀では、車は空を飛んでいたし(飛ぶ必然性はないが)、97式イングラムはグリフォンを倒して日本の治安を守っていたし、核融合発電だって利用されていましたよ。
 ここしばらくの間に発明された内容を全てチェックしているわけではないので、必ずしも正しいことを言っているとは限らないが、最近の技術発展は、これまであったものをよりコンパクトに使いやすくする、という方向にしか進んでいないのではあるまいか。
 20年前に比べれば携帯電話ははるかに小さくなって、よくこんなんで海外と話ができる、と思うものになっているし、ハードディスクだって、コンパクトで大容量・安価なものが手に入るようになっている。それはそれでとてもすばらしいことではあるけれど、翻ってみれば、天気予報は良く外れるし、朝の通勤ラッシュはなくならない。
 確かに、ロボットの2足歩行は、当たり前の技術として大学生でも使えるようになっていたり、青い色素を持ったバラが開発されたりはしているけど…。それでも、徐々に、気づかないくらいだけれど、枠をはみ出すような進歩は見られなくなっているような気がする。

 アポロ計画に見られるような宇宙開発競争は米ソ冷戦の賜物であるし、農耕が始まったのは一ヶ所にとどまって多数の人間を養うためであろうし、医療・衛生が注目されたのは、疫病で人がいっぱい死んだからだろうし…。各人の思惑を簡単に超えられるほどのインパクトがある出来事がないと、人と金を集中して注ぎ込むことなどできないのだろうなぁ。
 資源があっても技術がないような国では、金持ちの国の思惑で戦争が起こる。本来はこういうところから新しい技術が生まれてくるのかもしれないが、学問をする余裕などあるはずもなく、搾取をされ、貧乏のまま、その子供も貧乏で勉学ができない、というような悪循環が起こる。
 文明がある程度高度化して社会基盤が安定し生活に余裕が出てくれば、人様の心配をする余裕が出てくる。そういう国では、何故か何もしなくても生活ができてしまったりする。中卒で働いている人が手取り一桁の給料でひいひい言いながら生活している一方で、働かずとも生活保護で暮らしていける人もいたりする。ぬるま湯につかって生きていけるのならば、努力して死ぬ思いをして何かをなそうと思えるほど強い人はそれほどいないだろうし、抜け出そうと思える人でも、越えなければならない壁は高く、厚い。
 誤解の無いように言っておきたいが、社会的弱者を救う仕組みを持つということは、社会性動物として洗練の極地だと思う。その社会を否定するつもりはないし、ボクがその立場になったときには助けて欲しいとも思う。
 でも、生物界の進化の道筋を見ていると、生物としての多様性を確保しつつも、常に生物的に強いものが生き残ってきたように思う。求愛行動なんかがその象徴だしね。
 社会性動物にこのルールを当てはめるのであれば、社会生物学的に強い人間が生き残っていく社会でなければ、実は進化は行き詰ってしまうのではないか。しかし、文明の高度化はこの命題と必然的に矛盾する。

 生物にはアポトーシスという現象がある。人間の胎児は手のひらに水かきを持っているという。この水かきは生まれるまでに消えてしまう。これは、水かき部分の細胞が自ら消滅するためだ。このプログラム化された細胞の自殺をアポトーシスというらしい。
 帰宅途上の電車の中でふと思いついたことが一つ。もしかして、社会にもこういうシステムが必要なんじゃないか、ということ。社会がその建前上切り捨てられない存在が自ら切り離されていく仕組み。
 でも、これって現代ではホームレス、江戸時代で言うとエタ・非人というやつなのかも。自分より不幸な人がいることで満足するという仕組みならば、ボクが考えているものとは違うなぁ。

 もう少し考えないと結論が出せないな、と思う社会生物学的弱者の一人でありましたとさ。
いつの時代も変わらない
【科学】
 寺田寅彦の随筆、「科学者とあたま」を読む。研究を行っていく上で必要な"あたま"について語っているのだが、なるほど、とか、そういえばそうだったな、といちいちうなずくところが多い。
 ごくごく短い文なので、未読の方は一度読んでいただくこととして。ボクはこれを読んで微笑んだけれど、そうなれなかったのは、ここに書いてあることでも足りない部分があったからなのだろうなぁ。
寝る子は育つか
【医学】
 以前見たニュースに、睡眠時間と寿命に関係性が見つかった、というものがありました。

 "米国のカリフォルニア大サンディエゴ校と対がん協会が協力し、調査開始時30〜104歳の人を6年間追跡した。米医学誌「一般精神医学論集」15日号に載った論文によると、年齢や食習慣、運動、過去の病歴、喫煙などの要因を考慮した上で、死亡率を算出した。
 最適と言われることの多い8時間睡眠の人の死亡率は、6〜7時間の人より1割ほど高かった。また、8時間以上の人と5時間の人を比べると、8時間以上の方が高い死亡率を示した。"


 果たしてこの統計にはどの程度の意味があるのでしょうか。統計のプロというわけではないので、素人の妄言として受け取って欲しいのですが…
 統計:集団現象を数量的に把握すること。一定集団について、調査すべき事項を定め、その集団の性質・傾向を数量的に表すこと。(大辞林 第二版)
 この定義から分かるように、統計というものは、あくまで、集めたデータの中での傾向を示しているものであり、それを他の(未来の)事象に当てはめて推測するには、何らかの仮定をおかなければなりません。

 たとえば、統計物理学においては、エルゴード仮説という仮定がおかれます。ある粒子が将来どういう状態になっているかを知る為には、それをじっと観察して、その時間平均から、このくらいの時間がたつとこうなる、と言わなければなりません。でも、このやり方では、10の34乗年先の現象を知ることなんて到底できません。
 ここで、10の34乗個の同じ粒子を集めてきたとしましょう。これらの粒子は全て同じものですが、生まれた時期が同じとは限りません。無作為に集めてきたとすれば、誕生年は適当に散らばっているはずです。この集団を1年間観察して、1個の粒子がある状態に変化したとすれば、この粒子は、10の34乗年で状態変化を起こすということができるでしょう。時間平均と個数平均は等価だよ、というのがエルゴード仮説というやつです。

 物理の世界においては、この仮定に基づいて作られた理論が、様々な現象を適切に説明しているので、おそらく正しいだろう、と思われていますが、証明はされていません。
 粒子の話だったら、全ての粒子がおんなじだよ、というのは納得できなくもないですが、人間ではどうでしょう。全ての人間が同じように考え、同じように行動するなんて、とても想像できません。過去の統計を鵜呑みにして、行動を決めるのはあまりお勧めできない気がします。

 …自分がぐっすり寝たいからといって、こんなことを言っているわけではありませんよ?
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