2005年の日常に関する思索/批評のページ
2005年の日常に関連する記事を掲載しています。
- 相対的な
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人間の感覚というのは相対的なものだと思う。熱いとか寒いと感じるのは自分より周りの温度が高いもしくは低いからだし、隙とか嫌いとかいう概念だって、決して数字化されているわけじゃない。
そんな感覚の中で生きている人間の常として、他人と比較しちゃうっていうことがあるんだよなあ。それ自体は決して悪いことじゃないとは思うんだけど、人を見下して自分を守ろうとするようになると、どうかな?と思う。そういうことをしちゃうと、自分を下げることになるだけだと思うんだけど。
会社の同僚が飲み会に行って、上司の悪口なんかを言うのは、要は共通の話題がないっていうことなんだろうね。沈黙しているわけには行かないし、自分の趣味の話しばかりをしているわけにはいかないからね。
でも、いくら共通の話題だとは言っても、そればかりで盛り上がるのはどうかな?そんなんだったら、沈黙のほうがなんぼかマシのような気がする。
自分も嫌な人間にならないように気をつけないと。
- 気にしてないもん
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人から何を言われても気にしないんだろうなあ、と思っていた人が、以前に人に言われたことを意外に気にしていることが分かったり。人に気を使って話をしたりするることはほとんどないんだろうなあ、と思っていた人がきちんとそういう話し方もできるんだ、と分かったり。利害にからまない人間関係が好きです。
利益とか功績とかが重要視される成果主義というやつは、時に後ろから人に切りつけられるような事態を生み出したりすることがあります。そういうことはしたくないなあ。もっとも、今のように一人ぼっちで仕事をしていればそんな心配もないだろうけど。…でも一人は寂しいです。
- 一流
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夜も明けきらぬうちに大阪に向かって出発。だんだん冷えこむようになって来たなぁ。
京浜東北線に乗ってあたりを見ていたら、某メーカーの空気清浄機の広告が出ていた。アレルギー性物質や花粉などを除去する機能に、電撃パンチとかそんなネーミングをしていた。そのパンチを打つのが2頭身の丸っこいロボット。パンチで花粉を粉砕だーっ、みたいな?
そのイラストを見ると、デザインの良し悪しはともかく、パンチを打つ格好がさまになっている。ワキを締めて右拳を引き付けつつ左ストレートを打つ。ボクもボクシングには詳しく無いけど、体重が乗っていそうなパンチに見える。
こんな2頭身のロボのイラストで、そんなことを表現するのは難しいだろうに。これが一流の仕事なんだろうなぁ。
…大体、こういうことを考えるときは心が弱っているときなので、気をつけないとね。心の健康管理は大切です。
- 必要なのか?
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広告を見てふと思ったこと。あのクイズって、必要なの?
良く、クイズに答えて景品をもらおう!っていうやつがありますよね。大概答えは同じ用紙の中に目立つように書いてあって、それを写しさえすれば良いというやつ。何で、ただ応募すれば権利が生じるような形式にしないのだろうか。もしかして、法律で、クイズ形式にしなければならないことが決まってるの?どうなんやろ。
- 自分の中の自分
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失敗に気づいたのならば改めればよい。次は成功するでしょう。
やり直しの利かない一度きりの人生、なんてフレーズがあるけれど、大抵のことはやり直しができちゃったりするのもまた人生。この世には熱力学第二法則というものがあるから、エントロピーが増大しちゃうのは止められないけれど、異なる局面で同様の結果が出せれば成功と呼べるわけだからね。
でも、やり直しができない、難しい、タイミングが遅すぎるなんて問題も良くあるわけで…。そういったものにどうやって対応するかが問題なんだわ。
そういう局面で行う一つの方法が、後悔。あの時ああしておけば、ああしなかったら、と考えてしまえば、そのときの自分に責任を押し付けてしまえるから、今の自分は少し楽になるんだよねぇ。
じゃあ、後悔しないことを自分に課している人間は何をすればよいの?って問題。どこかには最善の解答があるのかもしれないけれど、ボクが知っている答えは非常に泥臭いもの。次に後悔しないように、日々を精一杯生きるしかないんだよね。
一歩一歩、昨日の自分よりより良い自分へ。さて、今週もガンバろっ、と。
- ホテル暮らしは貴族生活
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ホテルの生活って、貴族の生活だなあ、と思う。だって、どんなにぐちゃぐちゃにしたままで部屋を出て行っても、帰ってくるときれいになっているんだもん。楽だと思う一方、堕落していくな、とも思う。気をつけないと。
- 生きていくこと
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ふと、近所でも散歩して来ようと思う、夕暮れ時。実は近所に洋食屋さんがあって満席だったり、商店街を親子連れがそぞろ歩いていたり、大判焼きを1個50円で売っている屋台があったり、自転車に山ほど空き缶を積んで回収している人がいたり。
野生の動物は死ぬその瞬間まで、戦って生きることを勝ち取り続けなければならないのと同じように、人間は経済活動にいそしみ続けなければならないのだな、と。1個50円で利益率はどのくらいなんだろ?ってか、他の店が暴利をむさぼりすぎ?思わず、2個ほど買ってしまいました。
自分はちゃんと自分でいられている?そのために、人を犠牲にしていない?少し感傷的になってしまう光景。
- 動かなきゃ見えない
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ゴルフの全日本選手権があったからというわけではないが、動いているボールを打つのと、停まっているボールを打つのはどちらが難しいと思うだろうか。はっきりと調べたわけではないので確証は無いのだが、小耳に挟んだところでは、停まっているボールを打つ方がはるかに難しいのだそうだ。昔、バイト中、お客さんに聞いた話。
鳩が歩きながら首を動かすのは、鳩の目玉は動かないので、自分で動かさないと周辺の景色を捉えられないからだそうだし、REM睡眠のREMはRapid Eye Movementの略だった気がするし、眼球というのは停まっているものを捉えるのが実は苦手なのかもしれない。
突然こんな話になったのは、家にいるときにブログのネタが何も思いつかなかったからだ。特に何も起こらない変化しない環境を文章にするのは非常に難しい。文章は、変化し続ける状況をとどめるためのものなんだな、と強く思う。
一方で、絵画というものは静止しているものの方が描きやすいと思う。特に素人は。上手くなれば、動いている姿や色々な方向からの姿を描いたりもできるんだろうけど。歴史的に考えても、壁画とかで書ききれない事柄をとどめるために発明したのが文字なのだろうから、得意分野が違うのも当然かもしれない。
この中間の表現方法って、ないのかな?
- 鏡の両側
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休日、夜に東京へ向かう電車は空いている。車両には、ボクとせいぜい数人。そんな時、窓の外を眺めると物悲しい。
窓の外には、まぶしい街の灯が広がっている。不意にそれが途切れ宵闇が訪れると、窓に映るのは大きな長椅子に座るボク一人。あまりの差異に少し泣けてくる。
でも、よく考えてみようよ。窓に自分が映るのは、向こう側が暗いからだし、こちら側が明かりに満ちているからなんだよ。何も恐れることはない。
…アホか!
- たいせつなこと
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F1日本GPを見る。夜中にがんばって見るほどではないが、昼間にやっていれば見るのだ。
前日の雨から一気に路面の状況が変わったせいか、波乱含みのスタートとなった。今回のレースはかなり面白かったと思う。同じくらい速いマシンで同じくらい上手いのに、わずかな隙を突いて相手を抜いていく勝負度胸はすごいと思う。
でも、本当に良いなと思ったのは表彰式のシーン。お立ち台に上がったライコネンがその下にいるチームスタッフに、勝利のシャンパンをそっと落とす。チーム全体で勝利を祝う姿勢はすばらしい。
たとえどんなにドライバーが良くても、マシンが悪ければ勝てないし、その逆も然り。コンディションが良くても、作戦負けすることもある。みんながそれぞれの力を発揮しないと勝てないんだなぁ。
きっとこれはどこでも同じ。自然界だって、人間の社会だって。自分の生活の影には、様々な人がいるのを忘れたとき、きっと人は堕ちていくのだろう。
- なぜだろう?
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世の中には不思議なことがいっぱいです。この世界には、電磁波というやつが、ところかまわず飛び交っています。それをつかまえる事ができれば、どこでも連絡が取れちゃったりするんだよね、これが。
期待していない場所でメールがチェックできて喜んでいるボクでした。
- よせてよせて
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うちの近くのファーストフード店の前に水がまかれていた。ここから何を考えるか。
事実。この店の前には、週末などになると若い子たちが集まって、食べ物を食べたり飲み物を飲んだり、ゴミを撒き散らしたりしている。次の日の朝、商店街の人たちが早朝掃除をしたりしているので、きっと迷惑な行為なのだろう。
ここで思い出すのが、昔テレビで知ったこと。京都や赤坂の料亭などの軒下に、竹などで軒下に立てないように囲いがあったりしますよね。あれは、立ち聞きができないように、雨宿り阻止のための仕掛けなんだそうな。無粋なことを風流に。
そこから考えると、今回の水撒きも、集まる人の排除が目的かもしれないよね。でも、囲いをつくって入れなくしたりすると雰囲気が悪いから、水をまくという行為で代行したのかも。そう思うと面白い。
- スはスポーツのス
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人間の記憶って、どうやってためられているんだろう?心の表層にさらされて、正や負の方向にゆがめられ続けていくものもあれば、奥底に沈んでしまって、滅多に浮かびあがってこないものもある。でも、そういうものだって、決して無くなってしまった訳ではなく…。何かのきっかけで思い出すこともあれば、表われることなく自分を縛っていることだってあると思うのだ。
テレビを見ていて、ふと思い出した。バイトの休憩時間中、話をしていて、なぜ日本起源のスポーツがないのか、という話になったことがある。本当に日本起源のスポーツがないかどうかはボクが無知なので断定はできないが、ちょっと考えたところではありそうもない。これはなぜなのか?
そもそも、スポーツというものは生きることに必ずしも必要ない。より正確に言うならば、死なないためには必要がない。スポーツが健康を保つために必要であるかのように言われるのは、本来人間が生きるために行わざるを得なかった運動量が減少しので、それを補う必要性が生じたためだと考えられる。つまり、生き抜くことが保障されていない世界では、スポーツが生まれる素地はないのだ。
その視点から見てみると、古代オリンピアやコロッセオが使われた時代は、奴隷制度に支えられたローマ市民が暇な時代だった。囲碁や将棋、チェスなどのボードゲームもスポーツの一種だと考えれば、これらに興じ、強かったのは、貴族や坊主、武士などの富裕層だったろう。
日本では、スポーツを生み出しうるのは公家だったろう。しかし、途中から武家に政権をのっとられ、貧困し、そんな余裕は無かったように思われる。一方武士は、平氏の反省から公家化することを恐れ、公に遊ぶことはなかったと思われるので、やはり、スポーツを生み出すことはなかったと思われる。
きっかけがあるかないかも重要だが、それが成長するには、子供が遊べることが大事だ。生活と関係なく子供が遊べる環境があってこそ、スポーツは普及する気がする。いつまでも、スポーツが普及し続けられる世界でありますように。
(強引にまとめてみました。)
- 正論と見せかけて…
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今日、午後6時から日本テレビ系で放送されている「バンキシャ!」を見た。後半、9.11の消防無線の様子が放送された。
突然起こった惨事の中、ビルに向かって救助に駆けつけ、奮闘し、散って逝く消防隊員たちの姿が、音声で、生々しく放送された。彼らの勇気ある姿に、不覚にも、涙ぐんでしまった。
映像終了後、コメンテーターが、9.11で多くのアメリカ人が死に、その報復で、イラクでもアメリカ人が死に、より多くのイラク人が死んだ、だから、憎しみの連鎖は断ち切らなければならない、という趣旨の発言があった。これを聞いたとき、僕の中には、言いようのない不快感があふれた。
一見、彼の言うことは正論である。しかし、少し考えてみたい。仮に、娘を殺された父親がいたとしよう。その父親が、娘を殺した男を殺す。そして、殺された男の母親が、初めに殺された娘の弟を殺す。これは明らかに、憎しみの連鎖である。なぜならば、憎しみを抱く対象が個人に特定されており、その個人の流れは一直線上にあるから。この場合、誰に責任があるかは明らかであり、法の下に裁くことも容易であろう。
ここで、対象を国家に移してみよう。国家において、前述の例の個人に対応するのは、政府である。そして、政府が犯す罪というものは、失政である。歴史上のある時点において犯され、ある程度の時間を経て、報復行為がなされる。
しかし、政府というものは入れ物に過ぎない。実際には、複数の人間により運営されるものである。しかも、この人間は頻繁に入れ替わる。だから、失政を犯した人物と、報復を受ける時期の政府関係者は、必ずしも同じではない。そして、主に被害をこうむるのは、政策決定には関わっていないような人々なのだ。
もちろん、どれほどの時間が経とうとも、同じ国家であるのならば、国家の名の下に犯した罪は、国家の名の下に償わなければならない。これを踏まえるならば、政府首脳が激情にかられて国家を動かすことがあってはならないことが理解できるだろう。なぜならば、彼らが死んだあとにも、その罪は国民をさいなむのだから。死んだ人間に責任を取ることはできない。だからこそ、冷徹に、先を読んだ行動をとらなければならないのだ。怒りにとらわれるのは、個人だけで十分だ。
では、今回の事例はどうなのか。ここまで来れば、僕の言いたいことが少しは理解していただけているかもしれない。連鎖しているのは憎しみではなく、政治の舵取りをする人間の失政なのだ。かつての罪を、さらに罪を重ねることで覆い隠そうとしているだけなのだ。ボクが不快感を感じたのは、苦しむ人間を助けるために戦って死んだ人間の軌跡を見せた映像のあとに、誰の罪かも明らかにせずして、一般論を論じることで自分の正しさを示そうとした彼の考え方を嫌悪したためだと思う。
…死んだ人間が二度と戻ることがないのならば、人として最上級の高潔さを見せた彼らの名が、その誇りと共に語り継がれんことを…。
- 誰がために鐘は鳴る
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今日はブラックにいきます。
大抵、次の日にこそ良いことがあると思うのは幻想です。その日が来れば、現実が自分を押しつぶすだけです。石川啄木も書いています。
「明日こそは何か良きことあるごとく思う心を叱りて眠る」
まあ、そんなもんです。
普通の人は、楽しむために生きるかもしれないけれど、僕は生きるために楽しむことにしています。生きている以上、行き続けることは義務だと思うから。そんなことを思う、研修の一日。
無事、お金の返却は終わりました。少しすっきり。しかし、こんなこと書くなんて、よっぽど書くことがないんだな。
- 魂に安らぎあれ…
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8月16日。宮城周辺で大きな地震があった。それを知ったのが、研修のお昼休み。ご飯を食べながらそんな話をしていたら、同じ班の人が阪神大震災の体験を語ってくれた。
本人の家は、それほどの被害を受けなかったらしいのだが、親戚の家が震源の近くだったらしく、震災直後に、彼らを救出に行くため、震災直後の街を歩いたらしい。まだ、規制も敷かれておらず、いつ倒れてくるか分からないビルの間を、父親と一緒に、足音を殺しながら歩いたそうだ。…足音でビルが倒壊するかもしれないとおびえながら。
いったい何が生死を分けるのか分からない。たまたま、当日締め切りのレポートがあったため、徹夜でコタツで勉強をして寝てしまったという理由で、コタツに倒れてきた家を支えられ、一家全滅の中、生き残った人もいるという。
今でも、阪神大震災の追悼番組を見ると、自然に涙が出てしまう人もいる。10年を過ぎても、何かは消えることなく残っているのだ。それは、体験しない人には、きっと理解できない。
敗戦記念日を一日過ぎて思う。たとえ60年経っても、当事者の傷は癒える事はないのだ、と。同時に思う。体験していない人に、本当の痛みは伝わっていないのだ、と。
いがみ合うのではなく、お互いをいたわる気持ちを。憎しみを伝えるのではなく、互いに手を取り合える道を。
なんてね。Kさん、お話ありがとう。貴重な経験になりました。
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