マイケル・サンデル作品の書評/レビュー

これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学(訳:鬼澤忍)

現実的な平衡点は果たして存在するか
評価:☆☆☆☆★
 近年の出来事を抽象化して道徳と正義の要素を抜き出し、その問題に対してあるべき政治的対応の姿を、ジェレミー・ベンサム、ジョン・スチュアート・ミル、イマヌエル・カント、ジョン・ロールズ、アリストテレスといった過去の哲学者の主張を引き合いに出しながら考えていく。
 一つの物事に対する様々な側面からの解釈を学べるという意味で教育的だと思うが、著者自身が示すあるべき姿がないため、この日本語タイトルが適しているかは疑問に感じた。

 この本で語られるのは、正義とは何か、という問いに対する人類の思索の歴史だ。

 功利主義において正義とは、最大幸福の実現だという。この場合、自動車のリコールにかかる費用と不具合により発生する事故後の補償を比較して、後者の方が安ければリコールをしない判断を下すのが正しい判断ということになる。このような考え方は、犠牲になる誰かを具体的に考えない場合には正しい気もするが、その犠牲が自分や身内になる場合は許容できないだろう。ここでは個人という視点がごっそりと抜け落ちている。
 この個人の自由を最重要視したのが自由至上主義(リバタリアニズム)だ。ここでの正義は、他人にも同様の権利を認めることを前提として、自由に自分の行動を選択できることだ。だから、大金持ちと貧乏人に分かれるのも自然なこと。そこには両者の選択の違いがあったのだから、ということになる。

 しかし、この自由だけでは何をやっても良いのか、ということになってしまう。それはあまり道徳的という気がしない。そこでカントは、外的要因に左右されず選択できる自律的自由を定義し、自律的自由を持つ人々が仮想的に同意した契約により、道徳的な社会が築かれると説いた。
 そこに平等という概念を加えたのがロールズである。人は生まれながらにして平等ではない。金持ちの家に生まれる者もいれば、足が速い者、頭の良い者がいる。それぞれの才能を利用して個人が自由に選択して得られた結果は、全て本人の功績ではないと説くのだ。だからこそ、自分の才能を利用して富んだ者は、他者に分配する義務があることになる。

 一方、アリストテレスは、社会の目的を達するためになされることが正義だと説く。人間は集団に属して生きるものなのだから、集団を良い方向に進める人が優遇されるべきだという。ここで許される個人は、共同体に属するものとしての個人だ。

 正義や道徳は個人から導かれるのか、共同体から導かれるのか。著者の考えは後者に近い。何故か。
 例えば、日本は過去の戦争について謝罪を要求される。正義や道徳が個人に基づくならば、自分は直接関わっていないのだから過去の戦争について謝罪をする必要がない、という見解が成立してしまう。しかしこれは何かおかしい。ゆえに著者は、個人は共同体に埋め込まれた存在であり、共同体の歴史の影響を受けると考えるのだ。

 では、具体的に政治はどんな正義や道徳に基づいて行わるべきなのか。それについては著者も未だ答えが見つかっていないらしい。ただ、国家の役割について改めて考えさせられた。
 仮に共同体の割合を大きくすれば愛国心の様な価値観を押し付けられることになる。こんな正義がまかり通る国家は息苦しくて生きづらい。一方で、才能や所与の条件、個人の環境や努力による結果を受け入れるだけで、この種の感じにくい不平等が捨て置かれる国家には、共同体の意味がない。
 どこまでを国家が面倒見るべきか、何を目指して政治を行うべきか。そして、外に目を向けた場合に、他国との格差を放置することは正義にもとらないのか。現実的に取り得る平衡点を探求するにしても、果たして存在するのかもよく分からない。

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