高原基彰作品の書評/レビュー

現代日本の転機 「自由」と「安定」のジレンマ

企業により維持されていた社会福祉制度の脆さ
評価:☆☆☆☆☆
 1970年代から2000年代初頭にかけて、日本の社会体制にどのようなことが起こったのかを、世界の潮流との比較および、自由と安定という一種の対立軸を通じて、総論的に明らかにしている。以下では自分の理解をまとめてみたい。

 世界では、73年のブレトン・ウッズ体制の崩壊を契機として、官僚制・福祉国家から新自由主義体制への移行が進められた。この背景にあるのは、第二次世界大戦以後の世界におけるアメリカが果たしてきた戦後復興負担の終結宣言だ。
 これにより、高負担に耐えられない各国は、大きな政府から小さな政府への転換を図った。このような転換が可能な理由には、これらの国に、政権担当が可能な、社会民主主義的な労働系政党と、保守系政党があるという事実を見逃してはならない。

 一方日本においては、この世界環境の激変の中で他国とは全く違う経緯をたどった。
 当時の日本は55年体制下にあったため、政権担当可能な政党は保守系のみで、労働系政党はせいぜい野次を飛ばす程度の役割しか果たせていなかった。このような環境における社会制度は、「日本的経営」「日本型福祉社会」「自民党型分配システム」により成り立っていた。これはそれぞれ、終身雇用、正社員の家長と専業主婦、財政投融資による地方開発、というキーワードで表現されるだろう。この社会制度により、福祉への支出は削減しつつ、企業による身分保障とそれに基づく家計の維持を実現し、その中で専業主婦などの労働力をパートなどで活用してコスト削減をしていた。
 この右バージョンの反近代主義が実現する「安定」に対する対抗軸として、国家・政府・企業などからの「自由」を標榜する議論、左バージョンの反近代主義も存在はしていたのだが、これは身分の安定を前提にした議論であって、現実的に社会を成立するシステムを創り出すことはついにできなかった。ゆえに、せいぜい、少数者、ジェンダーなど、右の反近代主義のシステムからはみ出した部分をつつく程度の議論に留まってしまう。
 結局、日本においては、外交や安全保障は対立軸になっても、経済政策や社会制度が政治における対立軸として議論されることはなかったと言える。

 周辺情勢の幸運と、この様な社会制度の下、総中流と言われる状況が続いて来たのだが、最終的にはバブルの崩壊によって綻びが見えてくる。これまでは企業により維持されてきた右バージョンの反近代主義が、不況のため企業が維持の努力を放棄し、新自由主義が他国に比べ20年遅れでやって来るのだ。
 これまでは企業がセーフティネットとして機能する前提で社会制度が組まれていたため、突然新自由主義に切り替わると、セットでセーフティネットが準備されなかったこともあり、これまでは存在していても気にされなかった格差が、生のまま表出することになった。
 このとき、対抗言説としてスモール・ビジネス論やゆとり論などが登場するのだが、結局これも実際にビジネスとして成立するか否かをまったく無視した議論であったため、格差を是正する役には立たなかった。これは、スモール・ビジネスの対象が主に低賃金サービス業であり、ゆとり論の対象がフリーターなどである事実を考えれば当然と言える。
 そして、この状況は現在も続いているのだ。


 この本で取り扱われている時期は、大体、生まれてから後のことなのだが、物心ついてからの範囲で見れば、半分程度のことしか体験していないわけで、この様に全体感を持って紹介してもらえると、大変わかりやすい。
 このような歴史的変遷を踏まえ、出来れば他の国がどうだったのかも理解してから、現在のニュースを見れば、それがどのような流れの中にあり、どこに向かうのかが分かりやすくなる気がする。ただ、最も心配なのは、その向かう先にアテがあるのかが見えない所なのだが…。

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