さやわか作品の書評/レビュー

AKB商法とは何だったのか

外側の論理の暴虐
評価:☆☆☆☆★
 本書の大きな目的は、アイドル文化に希望に満ちた未来を見いだすことにある。それを成すために、第一章では、現代アイドル批判の中心である「AKB商法」を定義し、その問題とされている部分を明らかにする。第二章では、そもそもAKBが歴史的アイドル文化の文脈上における位置づけを明らかにし、彼女たちが異端なのかを考えていく。
 そして第三章では、AKB以後のアイドルが、AKBや伝統的アイドルとどのような関係を持っているかを明らかにする。終章では、アイドル戦国時代がアイドル文化衰退に繋がらないための方策として、「DD(Daredemo Daisuki)」の一般拡張を提案している。

 「AKB商法」とは、本来メインの商材であるCD・書籍に付録をつけ、その付録にバリエーションを与えることで、付録に価値を見いだす消費者に同じCDを何枚も買わせる商法である。AKB商法が採用されるに至ったのには、AKBがライブアイドルであることに関係する。
 音楽業界でトップを取るためには、どれだけファンの人気があっても、CD売上チャートの上位を取らなければメディアからは無視される。ゆえにAKBは、ファンを巻き込んで、CD売上チャートの上位を取るための戦略を取ったのである。

 そもそもAKBは、日本のアイドルの文脈上でどのような位置づけにあるのか。南沙織、吉永小百合、松田聖子、おニャン子クラブ、モーニング娘。のそれぞれに、アイドル文化の変遷の特徴を代表させ分析すると、メディアアイドルは、記号としてのアイドルから、より身近な、リアリティのあるアイドルへと移り変わってきている。
 これと同時に、パフォーマンスアイドルとも呼ぶべきアーティストたち、安室奈美恵、SPEED、MAXなどの、技術に裏打ちされたダンスでファンを魅了するタイプが登場するようになった。アイドルにも、記号以外の実力が求められるようになったのである。

 この文脈上に誕生し、それまでのアイドルの要素を再構成した存在がAKBであると位置づけられる。そしてこれを受け継ぎ、アイドル戦国時代という言葉に代表されるような、アイドル間のバトル要素というストーリー性を協調したのが、ももいろクローバーなどのアイドルなのだ。


 そもそも、おまけ商法とも言うべきAKB商法は、AKBが初めて行ったことではない。それまでのアイドルも、おまけでファンを釣るようなCDの売り方をしている。ではなぜ、AKBが特に批判の対象とされるか?それは、彼女たちが性を売り物に人気を集めているような印象を与えているからではないだろうか?
 著者は、AKB商法への批判は倫理的な問題だという。そもそもAKBには女性ファンも多いのだから、彼女たちが性を売り物にしているという見方は当たらないという。だが、AKBを構成している、アイドル、運営、ファンという内側の論理を離れ、現場性の低いファン層やその他外部の人々から見れば、彼女たちのパフォーマンスやイベントの運営方法に、性を売り物にしているという印象を抱かせないことはできない。

 そこで著者が願うのは、DDが一般化することである。外部の人々も含め、現代アイドルを構成するファンの一部に取り込んでしまうことが出来れば、彼らにも内側の論理が働くことになり、AKB商法という批判的見方も廃れていくのではないか、と。しかし、そんなことは夢物語だろう。それこそ内側の論理である。

僕たちのゲーム史

ユーザーによる選択的進化の歴史
評価:☆☆☆☆★
 ゲームを「ボタンを押すと反応すること」を不変の要素と定義し、「物語をどのように扱うか」という視点でゲームの変遷をまとめている。現代から過去を俯瞰するのではなく、当時の資料にあたり、そのゲームが当時どのように捉えられ扱われていたかを明らかにして、ゲーム史を編んでいる。

 家庭用ゲーム機の黎明期にあっては、PC環境も含めて、ゲームとは反射神経や判断力、論理性などを試すものだった。それはそれで楽しいものではあったが、家庭用ゲーム機が発売され、マニアではないユーザーがゲームをやるようになると、すぐに飽きられるようになってしまう。そういったユーザーは、やり込み要素よりも、瞬間的な面白さを追求する面が強いからだ。
 そんなとき、「スーパーマリオ」が登場する。これは現代から見るとアクションゲームだが、当時はアドベンチャーゲームとして売り出されていた。隠しアイテムや裏技など、プレイヤーがボタンを押して操作して自ら探し出すという要素が目新しかったからだ。同じゲームをやるにしても、正解が定められていない、ユーザーのプレイスタイルの自由度を許す部分が、アドベンチャーと捉えられたのだろう。

 やがて「ドラゴンクエスト」が発売され、物語性を重視する傾向は強まっていく。ここで言う物語性とは、アメリカで見られるような、一人称スタイルの、プレイヤー自身がゲームの主体となる物語性というよりも、三人称視点の、退屈で変化のない日常とは異なる世界で活躍するキャラクターに託すような物語性だ。キャラクターが物語内で活躍するのを見てプレイヤーが満足すると言うような方向性と言えよう。
 この傾向は、リアリティを追求するはずのシミュレーションですら見られるようになり、果てはノベルゲームという、インタラクティブな物語のみを指向するジャンルも生まれていく。

 一方、アーケードゲームは、風営法の規制対象となったことなどがきっかけで、やはりマニア以外のユーザーの興味を惹くことが求められるようになる。このときに目指したのが、家庭用ゲーム機では得られない、リアルの肉体へのフィードバックだ。
 例えばバイクを運転するゲームならば操縦はバイクに乗って行う、音ゲーならば体を使って音楽を奏でているような実感を与えるという方向性だ。家庭用ゲーム機では精神世界で日常では得られない充足感を求め、アーケードゲームでは肉体世界で同様の充実感を得ようとしたと解釈することもできるだろう。
 また、ゲームセンターにやってくるプレイヤー同士による対戦要素を上手く強調することで、家庭では得られない、知らない相手との対決、そして勝利という恍惚を求められる舞台を整え、プレイヤー自身に、ランキング上位者という物語性を与えることにも成功した。やがてこれは、ネットワーク対戦という形で、家庭用ゲーム機も参入してくる領域となる。「ポケモン」「モンスターハンター」もそれに数えられるだろう。

 だがこの物語性重視の発展は、意外なことに、ハードウェアの高機能化によって迷走することになってしまう。開発者としてはせっかくの高機能を生かして様々な要素を盛り込みたいと思い開発するのだが、それがゲームとしての必要性とは必ずしもリンクしなくなり、ユーザーから見たときに意味の分からない要素になってしまったのだ。
 このあたりは、ゲームの世界だけではなく、日本の家電メーカーが陥ってしまった罠と言えるかも知れない。テッキーな発想と一般ユーザーの望むものとのズレが、皮肉にも高機能化によって大きくなってしまったのだろう。

 そんな変遷を経て現代へ。著者ははしがきで今後のゲームの展開にも答えられるようになったと書いているが、正直、そういった内容ではないように思う。過去を分析して分かるのは現在であって、未来ではないからだ。言って見れば本作は、進化の過程で淘汰された個体を無視し、現代まで生き残った系譜の流れを明らかにしたに過ぎない。
 生物の世界において淘汰を促すのは自然であるが、ゲームの世界においてはユーザーである。なぜそういった淘汰が起こり、進化が起きたのか。そしてそこにユーザーはどう関与していたのか。そして何故ユーザーはその選択をしたのか。そのメカニズムを明らかにしない限り、未来を予測するのは難しいように思う。

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