佐藤眞一作品の書評/レビュー

認知症 「不可解な行動」には理由がある

認知症患者の擁護者
評価:☆☆☆★★
 アルツハイマー型認知症、レビー小体病、前頭側頭型認知症(ピック病)、血管性認知症などの総称である認知症を、認知症になった人の視点に立って解説している。介護する人の視点に立っているようなフリをしているが、行間から漂ってくる著者の認識はそうではない。
 本書では、まず、認知症の仕組みとして、作動記憶、短期記憶、長期記憶と連なる記憶の認知モデルを紹介し、そのうち、作動記憶に低下が起こることで、感覚器の情報から注意し記憶すべき情報をより分けることが出来なくなっていくと言うことを紹介し、認知症検査の弊害を指摘した上で、認知症の症例を示している。

 上記に於ける認知症検査の弊害とは、現在の検査方法が知能テスト・記憶力テストの側面を有し、認知症が疑われる患者にそれを悟られることなしに、認知症か否かを診断することが出来ないと言うことである。認知症だと疑われると言うことは、患者のプライドが傷つけられると言うことであり、そのことが原因で、実際は認知症ではなくとも、鬱病などを引き起こす要因となりかねない。ゆえに、患者のプライドを傷つけることなく診断できる検査法が求められるというのが著者の主張である。
 また、認知症の症例においては、記憶力の減退、徘徊、妄想、異常行動など、認知症患者の言動には、脳内の機能の衰退が関係しており、認知症患者の意思とは無関係に、動物的反応が引き起こされる結果であることが説明されている。認知症患者は他者に対する想像力を働かせる機能が低くなっているため、介護者はどんな言動を取られてもそれを受容し、傾聴しなければならないと説く。そんな著者の、聖人君子的な方法論が繰り広げられるのだ。

 しかし現実に、何十年も世話をして尽くし、あげく認知症になって無体な目にあわされる家族の介護者が、無制限に受容し傾聴するなどと言うことは、あまりにも現実的ではないと思う。著者もそのあたりは理解している様なことを随所で書くのだが、行間からは、家族介護神話論者的性質が垣間見え、苛立たしい。
 赤の他人であるならば、認知症に陥った状況を客観的に観察し、それに対処することも出来るかも知れないが、何十年もの蓄積がある関係ならば、正負共に積み重なった感情は大きく、容易に相手の変化を受け入れることなど困難であろう。

 著者は、おむつを嫌がるようならば、排便パターンなどを観察し、それに合わせてトイレに誘導するなどしておむつをはかせないのが結果的に楽だなどというが、仮に介護者が専業主婦だとしても、専業主婦とは自宅を職場とする職業人であり、忙しく仕事に立ち回りながら、認知症患者を観察するなど、至難と言わざるを得ない。それが出来ると主張するなら、著者は、学生の試験を採点したり、論文の構想を練り良いアイデアが浮かびそうになった瞬間などに、それを邪魔するように認知症患者の下の世話をする実践をしていただきたい。そしてそれが出来るというならば、それが出来る人間になるためには何をしたら良いかを是非ご教授いただきたい。

 認知症患者は自分でどうすることも出来ないのだから、介護者が自分の心をコントロールするしかないというような論法は、犯罪加害者と被害者遺族の関係性に類似したものを感じてしまう。弁護士のようなある種の権威が、自分の大切な人を殺した人物を擁護し、その刑を軽減しようとする際に感じるような感情だ。理屈ではそのような行為が許されると理解しつつも、感情では受け入れられないようなものだ。理屈で著者の主張が正しいことなど分かりきっている。だが現実に介護者が直面する苦悩をどう和らげれば良いのか、それを教えて欲しい。

 一体、この本は誰が読めば良いのだろう。認知症患者が読んで自身の状況を理解し、介護者に正しく接することが出来れば一番なのだが、それは無理だ。介護者が読めば、上記のような理由で心穏やかに読むことは出来ないだろう。第三者が読めば理性的に読めるだろうが、それは家族介護神話論者を増やすだけの結果にしか繋がらない気がする。
 ゆえに本書は、将来認知症になる可能性があり、現在、認知症と無関係な人間が、第三者的な視点ではなく、当事者的な視点、それも認知症に自分がなるという前提で読めば良いと思う。そうすれば、自分が認知症になった時に、自分の状況を少しは理解し、介護者に優しい認知症患者になれるかも知れない。そう期待したい。

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