滝川一廣作品の書評/レビュー

学校へ行く意味・休む意味: 不登校ってなんだろう?

あらためて考える教育
評価:☆☆☆☆★
 結論に向けて論理立てて事実を積み上げていくような構成ではない。教育という幅広い分野について、歴史を掘り下げてみたり、解釈を提示してみたり、社会背景を考えてみたり、様々な要素を摘み食いしつつ、学校というものについて思いを巡らせる機会を与えてくれる本となっている。ゆえに、読み終わって何かを得ているかどうかは、読んでいる間に何かを考えたかどうかに依存しているという本だ。

 教育における歴史上の転換点は、国民国家の誕生と共にあると考えてよいだろう。国民国家誕生以前にあっては、教育とは生きる術に直結するものであった。狩猟の仕方を学び、徒弟となって技術を学び、家庭教師から帝王学を学ぶ。それぞれの社会階層において形の違いはあれ、生きていくための知識を学ぶことが教育だった。これは、人々が、自分の身の回りのことだけを考えていれば十分な社会制度の中に生きていたからだろう。
 しかし、国民国家が誕生し、人々は自らの手で国家運営に関与しなければならなくなった。人々に平等の権利を与えるならば、その能力水準もある一定以上でなければ社会が破綻してしまう。それを効率的に進めるため学校が誕生し、平等な教育機会が与えられ、直接的に生活に関わるのではない教育がなされるようになった。

 こうして誕生した学校は、次は産業構造の変化にさらされる。第一次産業に従事している人々が多かった頃は、生活が学校教育に依存する程度は低かった。しかし、第二次産業に移行して行くに従い、学校教育の内容が、仕事の内容と重なっていく度合いが高まる。生活をより豊かにするため、人々は学校教育に熱心になっていった。
 だが、それもある程度進むと、社会全体の豊かさが十分になり、頑張らなくても生きていくのに困らないような社会が実現してしまう。さらには、第三次産業に移行すると、知識よりもコミュニケーションに重点が移り変わり、学校教育の内容と仕事の内容に再びずれが生じ始めた。学校教育に重要性を見いださない人々が再び生じ始める。

 このような教育の変遷の中で生まれたのが不登校だ。病気でもなく、家庭環境の問題でもなく、怠けているわけでもなく、学校に行けない。そういった子供たちが生まれ始めたのである。そして社会はそれに様々な理由をつけ始める。だが、どの理由が正しいのかははっきりしない。どれも正しいような気がする。
 教育の義務とは、大人が子供に教育を受けさせる義務であり、子供が受ける義務ではない。そして教育とは、前述の通り、一通りに定義出来るものではなく、社会制度によって移り変わるものである。子供に受けさせる教育とは何が相応しいのか。不登校に接した時、あらためてその問いから問い直すべきなのかも知れない。

ホーム
inserted by FC2 system