西田宗千佳作品の書評/レビュー

形なきモノを売る時代 タブレット・スマートフォンが変える勝ち組、負け組

考えるきっかけにはなった
評価:☆☆☆★★
 昔から、訪問販売の人が高い商品を売り付ける場合などに「一日に換算するとコーヒー一杯の値段」などという手法で説得することがあったように思う。その心理を突いた販売モデルが、i-modeから始まる携帯端末の課金モデルだと総括できるだろう。
 ただ、当初は携帯電話というプラットフォームの制約上、またパケット料金の体系上、やり取りできるデータには限界があった。その限界を破壊したのが、タブレット・スマートフォンというデバイスだろう。常に手元に置くことで月額課金モデルに対する“無駄”の心理的障壁を下げ、アプリという形でコンテンツを買うことを正当化する。

 このとき重要なのは、“コンテンツ”自体を販売しているのではなく、“サービス”を販売しているということだろう。それなのに、かつて物理媒体を販売していた要領でデジタルコンテンツを売ろうとすれば、その試みは失敗してしまうのだ。
 なぜなら、コンテンツを買う意欲を持っている人は“所有”することに価値を見出しているからだ。一方で、サービスを欲する人は“所有”よりも“利用”に価値を見出す。必要な時にいつでもどこでも利用できるのが良い。その要望に、携帯できるネット端末はぴったりと適合している。

 ところが、この文脈で「スマートTV」のような、固定端末にネットを接続することを解釈しようとすれば誤ってしまうだろう。これがヒットするならば、そこには別の要因があると解釈すべきだ。
 かつて、テレビは一家団欒の花形だった。それが一台あるだけで、家族が集まり、チャンネル争いをしたり、内容について話題を共有で来たりした。見ること自体よりも、それについて話す方が楽しいことは、井戸端会議などの話題を分析すればわかるだろう。

 しかし、核家族化を通り越して、家族間での生活時間帯のずれ、テレビの複数台普及、個人主義の蔓延などの社会的変化は、テレビをただ見るだけの道具に貶めてしまった。それを再び花形まで高めようというのが、「スマートTV」の試みなのだと思う。
 「バルス」でツイッターがダウンするなどのニュースを見るように、そして匿名掲示板の隆盛を見るように、自分の意見を誰かと共有したいという欲求は、ネットが物理的距離を消滅させたことで、見知らぬ誰かを対象に満たすことができるようになった。それに倣い、テレビが取り込もうとしているチャネルがネットということなのだろう。

 というようなことを考えるきっかけにはなった。

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